2010年6月25日金曜日

最近我が家で流行ってること

先週、娘とぶらりとレンタル屋さんに立ち寄り、ビデオをそれぞれ選んだのですが、なんと私が選んだのもホラーで、娘が選んだのもホラーっぽい映画でした。
親子って似るもんですね・・・

しかし選んでしまったのが、テレビドラマのような連続物で、最初2巻だけ借りたのですが、どんどん続きが見たくなって、毎日のようにDVDばっかり見てます。
はまっちゃうと抜けられなくなってしまう。
ところが、問題がひとつ・・・
私が出張だったり、みんなの帰りが違ったりで、もう見たものを後から帰ってきた娘や息子とに合わせて最初から見直したり・・・
返したいのに、見てないと言われれば、返せない・・・
そんなことが有り、今は全てPCにダビングしています。(本当はやっちゃいけないんでしょうが・・

2010年6月17日木曜日

梅雨に入りました

強い日差しに、花弁もところどころ焼けたようになっていたアジサイが、雨に打たれて元気を取り戻したようになっています。

周りの田んぼも麦が刈り取られ、すっかり水田に変わる準備が出来ていますし、もう3・4すると、用水路に一杯の水が流され、あっという間に田植えが済んだ光景に変わります。
毎年、こんなに広い田んぼに、いつの間に田植えが済んだんだろう?と、その変わり様に驚いています。

昨年は、暑い日が続き、毎日夏日で30度を超す日が、続いたんでした・・
すっかり、「地球は暑くなってるんだ~ 温暖化を防がないと!」と真剣に考えましたが(笑い
こうやって、梅雨時期に「梅雨」が訪れてくれると、なんか安心しますね。

この雨で、筑後川の水量も増えて、濁り水が入り込むと、ウナギ釣りの季節となります。

今週末は、天然ウナギでも食べて、元気を出しましょう。

2010年6月16日水曜日

今日から仕事に戻りました

事務所に着くと、見たこと無いほどの書類の束が机に重ねるほど、メールが届いてる。
午前中はこれらに目を通し、処理するのがいっぱい。
もちろん、私のいない間は、別の場所で色んな処理をしているから、顧客に迷惑を掛けることは無かったが、今日からはその全てを引き継がないといけない。
他人がやった仕事だからといって、私知りませんではどうにもならない。
何がどこまで進んでいるのか、どこへ連絡を入れないといけないか、把握できてない途中の仕事は、いつも以上に大変でした。

この忙しさが、しかし今は嬉しい。

明日は、相中から北九州で打ち合わせ・・

そういえば今週末は、教祖様と会える日でした。

 みんなどっか繰り出すんだろうな??~

でも、今回は、やっぱ自重しようかな・・・・・・・・・・・・・。

2010年6月13日日曜日

それから⑥終わりました

いろいろ、準備は進めていたつもりでした。
こんなときの為に、取り乱さぬよう、段取りを決めていました。

葬儀社、お寺などに連絡を取り、「お通夜」「告別式」と滞りなく済ませることが出来ました。
昨日は、お寺にお礼参りに出向き、今後の法要などについて確認してきました。

まだまだ、いろんなことを処理しないといけませんが、一応落ち着きました。

お通夜、告別式には沢山の弔問の方々がみえられ、えっ!と驚くような方もいらっしゃったり、電報については多くの取引先からも届き、びっくりしました。

しかし、どんなに段取りを決めていても、心の準備はしていたとしても、やはり、父の名前を口にすると、感情を抑えきれず、胸の熱くなる瞬間があるものですね。

父の一生とはなんだったんだろう?
昭和初期の生まれで、幼少期は戦時中、戦後を過ごし、田舎で高度成長はあまりに遠い存在で、苦労の連続だったんだとおもいます。
しかし、私の知らない父もあったんだろうとおもいます。
仕事に行っていたときの父や、友達との語らいは私の知るところではありません。
苦労話については、聞いたことは有りますが、なかなか楽しんだ事や、苦笑するようなことは教えてくれませんでしたからね。
今日は、部屋を片付けたり、明日は田舎へ行って役場の手続きなどを済ませようと考えています。


これから、初七日、四十九日、初盆と法要が続きますが、少しづつ思い出に変わっていくものでしょう。

2010年6月9日水曜日

父のそれから⑤大往生

今朝、8時50分頃、享年80歳で大往生 永眠を迎えました。
今日は、予め会社には代休を申請していて、自己も病院に行かないといけないと考えてたんです。
しかし、昨日父の主治医と話した際に、今日の朝ごはんには私が付き添って食べさせてみようと相談してたので、8時前に病院に入りごはんを食べようと父を促し、起していました。

看護師さんから渡された熱いおしぼりをもらい、ちょっとだけ冷まして、顔を拭いてやると、少しだけ気持ちよさそうな表情になりました。
もう少し8時までは時間が有ってので、売店まで行き、好きだったヤクルトと、食事が入らないときに、少しだけ食べてくれた、「ウィダーin」を買ってもう一度病室に戻りました。
ちょうど良く、朝食が運ばれてきておわんを開けてみたのですが、固形状の物だったので、「これは無理だろう」と判断しましたが、少しだけ口に運んでやると、舌を回し食べる仕草をしてくれました。
しかし、それを飲み込む力は無いようでした。
看護師さんに頼んでいた楽飲みから、お茶を少しだけ口に注いでやると、飲もうとした瞬間、気管のほうに食べ物が入ったのか、「ゴロゴロ」と喉が詰まった状態となった。
看護師さんから、口を明けてと云われると、バキュームの管を看護師さんに入れてもらい、食べたものを吸い出してもらうと、少し楽になったようでした。
主治医の先生も、そばについておられ、「これ以上はやはり、口から物を摂るのは無理だろう」という判断で、これからは、昨日話したように、できる限りの対策を試していこうと話しました。


話も終わり、父の傍に腰掛5分もしただろうか。
「なにか?変な?呼吸状態になりました」
2・3回いつもどおり呼吸をしたかと思うと、ちょっと呼吸が止まり、「はっと」したかと思うともう一度呼吸をすう、そんなことを何度繰り返しただろうか?

「息をひきとる」 何故そういうのか?

 吸った息をいつ吐き出すことも無く、2度と「息を吸う」事はありませんでした。

傍を離れた。

後は看護師さん達が、慌ただしく、「先生を呼んで・・」「〇〇さん」声をひっきりなしに掛けるのがわかる。
邪魔にならないように、一度病室を出て、廊下に出た。
代わりに、走ってきた主治医の先生が中に入る。数分した後に看護師さんから中に入ってくださいと云われ、父に傍に着いた。
「手を握っておいてください」「現在脈拍が50を切りました、40を切ると生命の維持は不可能になります」
私は見るのをやめた。
父の顔の表情には、もう何も変化はありませんでした。握った手も動くことも有りませんでした。
ただ、背中のほうで、脈拍計だけが、ピッ、ピッツ と機械音を立てていた。
「とちゃん」声を掛けたかったが、今、何か声を出すとそれはいきなり嗚咽に繋がることは解っていた。
「気持ちの準備は出来ていた筈だ」自分にもう一度言い聞かせた。

「いま、心拍数が ゼロ になりました、確認してください」

今朝まで、ほんの10分前まで、115~130を示していた数値は 0 になっている。
波形が少しだけぶれているが、そう想った瞬間には、水平状態となった。

こうなった場合、心臓の再起動処置を取らない事は主治医の先生と充分に話していた。
その事を、もう一度先生から了解を求められ、私はそうお願いした。

看護師さんから、その後の説明を受け、一旦席を外し、必要な場所への連らくを取る事とした。

2010年6月7日月曜日

父のそれから④転院

今日は「転院」しました。
朝から、状態はいい。 先週のようなけだるい様子はない。
もうすっかり、離乳食みたいになってしまった食事ですが、どうにか口に運ぶと時間をかけて飲み込んでくれる。
身の回りの荷物を片付け、準備を済ませた後、転院する病院に連絡を取り、予定時刻に救急車を呼び移動した。
この病院に来たときは、直ぐに退院できるような状態だった。
一週間もいたら、家に帰ろうといっていた。それが、5月の連休を境に状態が急変した。
それからは、良くなるどころか、急激に容態が良くなくなってきた。

病院には居るが、これといった治療は行われていない。
「このままでいいのか?」そういう疑問は有ったが、肝硬変(がん)肺がんの併発で、手術が出来るほどの体力も無い、年齢的にも不可能だということは解っている。
「苦痛が無く、療養を続けてもらいたい」そう考えていた。

「何が出来るか解らない」院長からはそういう話だったが、転院を進められたときには、少し安堵感も有った。
何かが変わりそうな気がしたのは間違いない。

新病棟に着き、集中治療室に入る。主治医の先生は最初に腹水で入院したときの担当医と同じ先生をお願いしていた。
「○○ さ~んもう一度ここに入院しましょうね」廊下で待っていた私にも聞こえてきた。
暫くして、処置室から先生が出てこられて、とにかく栄養が足りない、午後から栄養のある輸血を暫く続けることにしますと、説明があった。
「お任せいたします。宜しくお願いいたします」
そう、答えるしかなかった。
後は、事務的な手続きを済ませる為に、待合室で暫く待っているように言われ、待っていたが、現れたのは主治医の先生ではなく、看護師の女医の先生だった。
簡潔に事務的な手続きの話を済ませると、今の状態について決してよくないことをそれとなく伝えられることになった。
「これまで、病院にいらっしゃったんですよね?」
それは、不可思議な質問だった。
看護師さんが言いたいのは解った。今までの病院では十分な処置が行われていないと言いたかったのだ。
しかし、同じ業界としてあからさまにそうとは言えない。
それで、疑問符を付ける事で、こんなになるとは想像できないことを伝えようとしていたのだろう。
2月の末から3月初めの2週間程度でしたが、同じ部屋に入院していたのを、彼女も担当していたのか?、よく覚えていた。

しかし、転院した病院は救急外来も有り、どんな設備も、専門医も人でも揃っている総合病院だ。
これまでいた病院は、外来検診を主に行うような病院で、入院患者は療養を主な目的としている。

簡単には比較できない。
私はそれでも、これまで入院していた病院の看護師の皆さんには本当に世話になったと感謝している。
元気であれば、父は頑固で、口から物言うと卑下した言葉がどんどん飛び出す。
私は親子だから、なんと言われようが腹も立たない。笑って無視できるが、あかの他人が聞いたら、どんなに非常識人間だと想われるか解らないときがある。
それが「昔の人だからね~」そう、想って解ってくれるまでは、その看護師さんたちは相当に苦労したはずだ。
それが、十分に解る・・、 どうにか尽くしてくれたおかげで、私は仕事が続けられたのだ。


説明が一通り終わった後、

「いつでも、連絡が取れるようにしておいて下さい」・・・・・・・・・・

今日はその言葉が、とても重く感じられた。

父のそれから③一時の覚醒

先週から容態が決して良くない。
週末には元気を取り戻したように思えたが、体力は落ちるばかり・・
毎日、ぼ~っとして、こちらが言っているのが解るのか解らないのか?
そんな状態でしたが、なにやらボケを無くす薬というのがあるらしく、それを処方したことで、週末は元気を取り戻したようにみえていたんです。
「起こせ!」・・・久しぶりに口にした言葉でした。
もう、自分で起き上がる力など無い。膝をかろうじて伸ばしたり縮めたりするのがやっとです。
寝たきりになって約3週間くらいですが、寝返りを自分ですることも出来ない。
動かすと、床ずれがおきた皮膚が痛いのは解っていましたが、もう骨と皮だけになった細い足を持ち上げ、体を回しながらベッドの外に出し、ゆっくりと体を抱え上げ、ベッドの脇に座らせるようにした。
支えていないと、後ろにも前にも倒れこんでしまう。
腕は、だらんとたらしたままだったが、目はいつもよりしっかりしていた。
脇を支えていたが、どうにも不安定で、抱きかかえるようにしてみたが、それまでだらんとしていた手が、私の背中に回り、精一杯の力だろうか、私の体を抱きしめるようにしてきた。
そう長くは無かったと思うが、随分長く抱きしめられていたような気がする。
そのまま、疲れたのかゆっくりと手が下のおろされ、私の肩に、頭を乗せ掛けるようにしてきた。
耳元で父の息使いだけが聞こえてくる。
もうどれだけ苦しんだんだろうかとおもうと、まぶたが熱くなってしようがなかった。
そのままづっと父の息遣いを聞いていたかったが、不安定な体制での介助はそう長く耐えられなかった。
申し訳ないと想いながら、元のようにベッドにゆっくりと寝かせた。
動いた所為で、どこかすわりが悪いのか、顔に苦痛の表情が見られる。
父が喚いたり叫んだりすることはこれまでも見たとこがない。人一倍我慢強い。
それが解っているから、どれくらい痛いのか想像もつかない。

目には未だ力が残っている。話しかければ解る状態でした。
これまで、テレビは見ようとしなかったが、「テレビをみようか?」と声をかけてみた。
「うん」声にはならないが、一度まぶたを閉じ、開いた目は少し笑っているような気がした。

父は政治に話が好きだった。
元気なときは、「政治なんて親父がどう言おうと考えようと、どうしようもないんだから・・・」と、つっけんどんに受け答えしていた。
ちょうど今日は、首相が選ばれ、鳩山首相から管首相に代わった。
テレビでもその話題がもちきりでしたが、3ヶ月以上新聞もテレビも見ていない父にとっては、それが何故なのかわからないだろう。
しかし、昔みたいに繰り返し流れるニュース番組をいつまでも見入っていた。

番組が終わり、消灯の時刻が近づき、そろそろ休む事を薦め、
「明日、転院するよ」そう伝えた。

  もう、返事は無かった。

2010年6月2日水曜日

父のそれから②今後の治療について

今日は、病院の先生からの依頼で、病状説明を受けるために訪問してきました。
「できたら、一人ではなく、ご家族の方2名以上でお願いします」との事だったのでそれなりに覚悟をして伺いました。

病状については、日に日に悪くなって行っているのが解っている為、さほど驚くことはありませんでしたが、先生からの提案(相談)は、これからどう治療をしていくかについてでした。

現状は、食をとる事が出来ない状態が続いている。栄養が足りなく、脳やほかの臓器への悪影響、体力の限界が近い・・・
点滴をしたいが、もう体内に腹水が多く溜まっており、点滴が入らず、皮膚が破けて滲み出てきてしまう。

口から栄養を取るのが一番だが、飲み込む事が困難・・・・・・・

確かに様子を見ていて、食べるのが苦痛な状況であることは理解できる。食べ物は現在は殆どスープ状になっており、赤ちゃんの離乳食よりも柔らかい状態なんですが、スプーンで口に入れてやっても、飲み込むのに相当時間がかかってします状態です。
病院側でも、担当の看護婦をつけて、時間をかけて食事を与えてもらっていますが、それにも限界があるみたいでした。

そこで、大きな病院に転院して、胃に直接流動食を入れられるように管を通してみるのはどうかとのことでした。
他には、肩甲骨付近の大きな血管に、点滴を打つというものでしたが、病院側ではいずれの対応も、もし間違って管や、針が抜けた場合相当な出血や、事故につながるとして、命の危険も伴うことから、家族の同意なしでは、出来ないとのことでした。

「決断をしてください」

と言われましたが、どうしたものか非常に迷っています。
すぐ、そうしなければならない事は判っているのですが、父にとっては相当、現状以上に苦痛な状態になることとなります。そう考えると本人が受け入れられるか・・・

しかし、迷っている時間も無い為、一両日中に結論を出して、結果的にはそういう治療に切り替えることとなるかと考えます。